約 10,926 件
https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/288.html
武将名 いくまつ 侠妓 幾松 統一名称:木戸松子 生没年:1843~1886「女の美しさ、そして強さは この乱世だから、輝くのよ」若狭小浜藩士の娘。父が妻子を残して出奔すると京都で暮らし「幾松」という名の芸妓として人気を博した。桂小五郎(木戸孝允)の恋人となった後は、政敵から命を狙われる桂を陰で支え続け、明治維新後に婚姻して「木戸松子」を名乗った。 勢力 緋 時代 江戸・幕末 レアリティ SR コスト 1.0 兵種 鉄砲隊 武力 2 知力 7 特技 昂揚 計略 良妻の祈り 最も武力の高い剣豪の味方の武力が上がり、斬撃の範囲が広くなる 必要士気 3 効果時間 知力時間 Illust. 森井しづき 声優 鎌田梢 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 剣豪強化 3 +2 - - - 11.7c(知力依存0.8c) 範囲内の最も武力の高い味方の剣豪のみ。同武力がいた場合はランダム斬撃範囲 直径1.6部隊分拡大 範囲は回転可能な自身前方円。 (最新Ver.1.5.0A) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.1.0.0D 効果時間 10.8c → 11.7c 斬撃範囲 直径1.6部隊分拡大 → 2部隊分拡大 ↑ - Ver.1.5.0A 武力上昇値 +3 → +2斬撃範囲 直径2部隊分拡大 → 1.6部隊分拡大 ↓ - 所感 1コストの鉄砲隊、特技「昂揚」持ち。 武力2・知力7の知力重視型の基本スペックを持つ。 計略は「良妻の祈り」。 最も武力の高い剣豪の味方の武力が上がり、斬撃の範囲が広くなる。 重ね掛けが可能で、斬撃範囲をさらに広げることも可能。 実用性はさておき、やろうと思えば戦場全域を覆うまで広げられる。 基本的に剣豪ワントップデッキで使うことになる計略。 斬撃を当てることができれば強いが足の遅さが難点の剣豪の弱点を補いつつ、長所を伸ばせる。 目に見えて分かるくらい範囲が広がるので、大量の敵を巻き込んで斬ることができるようになる。 斬撃範囲が広がらないor移動速度が上がらない超絶強化持ちの剣豪は逃げられると追いつけず士気が無駄になりやすい欠点があるが、その欠点をカバーでき相性は非常に良い。 効果時間も長いので先打ちしておいて、状況を見て次の一手を打つことが可能。 解説 幾松の名は元々は難波常二郎の妻が名乗っていたものであり、難波の養女となり芸事を極めて二代目幾松を襲名している。 桂小五郎と知り合った頃は山科の富豪からも贔屓にされており、桂とその富豪は競うように彼女に金を使っていたが、 最終的には伊藤俊輔が刀で富豪を脅し身を引かせたという逸話が残っている。 台詞 \ 台詞 開幕 乱世だからこそ輝く女の強さ、お見せしましょう └自軍に緋013_桂小五郎 今こそ逃げずに立ち向かう時です、桂様! 計略 さあ、存分に戦ってください! └絆武将 私があなたを支えてみせます 兵種アクション 行きます! 撤退 あなただけでも、逃げて! 復活 私は逃げません! 伏兵 大切なものを守るために! 攻城 時代が変わる時が来ました 落城 さあ、私の舞いで癒されてください 贈り物① ありがとうございます。これからも支えますね。 贈り物② あなたがいるから頑張れる……お礼に、舞を披露しましょう。 贈り物(お正月) あなたの想いが結実するそんな一年になりますように…… 贈り物(バレンタインデー) わたしの想いが、あなたに届いている。そのことを願います。 贈り物(ホワイトデー) 嬉しい……あなたのおかげで素敵な一日になりそうです。 贈り物(ハロウィン) たまには嫌なことも忘れて好きな格好で気ままに過ごしましょう。 友好度上昇 私は逃げません! 寵臣 さあ参りましょう。私たちの結束を示す時です。 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前
https://w.atwiki.jp/jidai/pages/51.html
幕末維新の時代・歴史小説一覧 作者名 発行日 作品名 シリーズ 主人公 ジャンル 受賞歴 文庫化 映像化 電子書籍 朝井まかて 2013/08/22 恋歌 全1巻 中島歌子 歴史小説 ○ ○ 安部龍太郎 1998/06/01 難風忠直卿御座船(改題) 短編集 オールコックの通訳松平忠直他 歴史小説 ○ 安部龍太郎 1999/11/01 開陽丸、北へ 徳川海軍の興亡 全1巻 澤太郎左衛門 歴史小説 ○ 安部龍太郎 2000/07/01 お吉写真帖 短編集 技術者 市井小説 ○ 伊東潤 2012/01/01 義烈千秋 天狗党西へ 全1巻 天狗党 歴史小説 ○ ○ ○ 伊東潤 2013/04/18 巨鯨の海 短編集 鯨組 歴史小説 ○ ○ 幸田真音 2003/10/30 藍色のベンチャーあきんど 絹屋半兵衛(改題) 全2巻 近江商人 市井小説 ○ 葉室麟 2011/08/31 星火瞬く 全1巻 アレクサンダー 歴史小説 ○ ○ 葉室麟 2012/10/05 この君なくば 全1巻 藩士 武家小説 ○ 葉室麟 2013/02/01 春風伝 全1巻 高杉晋作 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1959/12/25 大阪侍 短編集 山崎烝近藤勇他 市井小説 ○ 司馬遼太郎 1960/11/25 上方武士道花咲ける上方武士道(改題) 全1巻 公家密偵 伝奇小説 ○ ○ 司馬遼太郎 1961/05/20 風の武士 全1巻 伊賀忍者 伝奇小説 ○ 司馬遼太郎 1963/07/10 竜馬がゆく 全5巻 坂本龍馬 歴史小説 ○ ○ ○ ○ 司馬遼太郎 1963/12/10 幕末 短編集 有村次左衛門清河八郎陸奥宗光大庭恭平岩崎弥太郎木戸孝允井上馨田中光顕三枝蓊他 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1964/03/20 燃えよ剣 全2巻 土方歳三 歴史小説 ○ ○ ○ 司馬遼太郎 1964/04/08 新選組血風録 短編集 篠原泰之進芹沢鴨山崎烝武田観柳斎近藤勇加納惣三郎沖田総司谷三十郎富山弥兵衛他 歴史小説 ○ ○ 司馬遼太郎 1964/07/30 鬼謀の人 短編集 大村益次郎河井継之助岡田以蔵他 歴史小説 司馬遼太郎 1965/03/15 酔って候 短編集 山内容堂島津久光伊達宗城鍋島直正 歴史小説 ○ ○ 司馬遼太郎 1967/02/05 十一番目の志士 全1巻 刺客 剣豪小説 ○ ○ 司馬遼太郎 1967/03/25 最後の将軍 徳川慶喜 全1巻 徳川慶喜 歴史小説 ○ ○ 司馬遼太郎 1968/05/01 喧嘩草雲 短編集 田崎草雲他 歴史小説 司馬遼太郎 1968/05/24 王城の護衛者 短編集 玉松真弘松平容保河井継之助大村益次郎 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1968/10/01 故郷忘じがたく候 短編集 朝鮮人陶工細川ガラシャ他 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1968/10/10 峠 全2巻 河井継之助 歴史小説 ○ ○ 司馬遼太郎 1969/11/24 歳月 全1巻 江藤新平 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1969/12/17 人斬り以蔵 短編集 大村益次郎岡田以蔵古田重然塙直之所郁太郎後藤基次他 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1971/05/20 世に棲む日日 全3巻 吉田松陰高杉晋作 歴史小説 ○ ○ ○ 司馬遼太郎 1972/05/25 花神 全4巻 大村益次郎 歴史小説 ○ ○ 司馬遼太郎 1975/12/30 翔ぶが如く 全7巻 西郷隆盛 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1977/04/20 木曜島の夜会 短編集 白蝶貝採取者富永有隣大楽源太郎他 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1979/07/20 胡蝶の夢 全5巻 松本良順 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1988/11/01 アームストロング砲 短編集 松原忠司上田馬之助沖田総司鍋島直正他 歴史小説 ○ 山本兼一 2008/05/01 とびきり屋見立帖シリーズ 連作短編全4巻 道具屋 市井小説 ○ ○ 山本兼一 2008/08/21 刀剣商ちょうじ屋光三郎シリーズ 全2巻 刀剣商 市井小説 ○ ○ 山本兼一 2010/03/25 命もいらず名もいらず 全2巻 山岡鉄舟 歴史小説 ○ ○
https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/705.html
武将名 まえはらいっせい 維新の十傑 前原一誠 統一名称:前原一誠 生没年:1834~1876「ま、こういう戦いを 経験しておくのも悪くはないか」長州藩士。松下村塾の門下生。久坂玄瑞らと共に脱藩し、長井雅楽の暗殺を計画する。第二次長州征伐や戊辰戦争で参謀として活躍した。維新後、新政府の方針に不満を持ち、不平士族を糾合して萩の乱を起こすが、鎮圧されて斬首となった。 勢力 緋 時代 江戸・幕末 レアリティ R コスト 2.5 兵種 騎兵 武力 8 知力 8 特技 昂揚 計略 萩の乱(はぎのらん) 江戸・幕末の味方の武力が上がる 必要士気 6 効果時間 知力時間 Illust. 玄丞 声優 浜田賢二 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 号令 6 +5 - - - 12.5c(知力依存0.2c) - 範囲は自身中心円、直径9.2部隊分。 (最新Ver.2.0.0H) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.1.5.0E 効果時間 9.2c → 10c計略範囲 直径7.2部隊分 → 8部隊分 ↑ - Ver.1.5.0I 効果時間 10c → 10.8c ↑ - Ver.1.6.0D 効果時間 10.8c → 11.7c ↑ - Ver.2.0.0H 効果時間 11.7c → 12.5c 計略範囲 直径8.0部隊分 → 9.2部隊分 ↑ - 所感 緋のコスト2.5の騎兵。 武力8・知力8のバランス型スペックであり、特技「昂揚」を持つ。 計略「萩の乱」は江戸・幕末の味方を対象とする号令。 効果は武力上昇のみとシンプルながら、やや長めの効果時間が売りとなる。 緋勢力の江戸・幕末所属の武将は武闘派がやや少なく単色では素武力に不安が残るため、混色での構築も選択肢に入るだろう。 解説 所属と計略対象は「江戸・幕末」だが萩の乱が起きたのは明治9年である。 明治という時代に馴染めず、江戸・幕末の時代に取り残された士族が起こした反乱だと解釈すると、その対象はあながち間違いでもないか。 萩の乱は「不平士族の反乱」と7文字で片づけられない複雑な事情がある。 一誠は明治維新後に新政府で参議・兵部大輔を勤めるが、新政府の方針に反対し下野する。 武士達は新政府の廃藩置県により所属する藩と収入となる俸禄を奪われ、 廃刀令により武士の魂といえる刀を奪われ、 徴兵制(国民皆兵)により「戦うこと=武士の存在意義」を奪われようとしていた。 木戸孝允や大久保利通が武士達の権力を奪い取り新しい国を創り上げていく中、 時代に取り残された武士達を見捨てられなかった情の人だったのかもしれない。 吉田松陰は 「その才は久坂玄瑞に及ばず、識は高杉晋作に及ばず。 しかし完全なること(総合力)は久坂も高杉も前原一誠に及ばず」と評している。 台詞 \ 台詞 開幕 ま、こういう戦いを経験しておくのも悪くはないか 計略 俺は手加減ができない男だぞ、いいか…? └絆武将 お前には見せてやる、俺の信念ってヤツをなぁ 兵種アクション くらえっ! 撤退 ここまでと言うのか… 復活 調子は悪くない 伏兵 さて、どう始末してやろうか 攻城 それで守っているつもりなのか? 落城 こう見えて、勝利への執念は人一倍あるんでな 贈り物① 俺を支えたいなら勝手にすればいいさ。礼は言わない。 贈り物② お前、変わってるな……言っておくが俺は、気の利いたことは言わんぞ? 贈り物(お正月) この一年、お前はどう生きる?考えるいい機会だ。 贈り物(バレンタインデー) あまり気をつかわないでくれ。一応、もらってはおくがな。 贈り物(ホワイトデー) 俺はつまらん男でな。なぜお前にこうもかまわれるのかわからんな。 贈り物(ハロウィン) 俺には無縁の祭りだな。お前が楽しむのは勝手だ。 友好度上昇 調子は悪くない 寵臣 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前
https://w.atwiki.jp/ggempirewiki/pages/233.html
軍 残酷な司令官 砂漠の支配者 火遊び 鉄壁 スナイパー 攻撃力 鉄の雨 攻城のエキスパート 生存者 貴族 英雄 鉄拳 武具収集家 収集家 トレジャーハンター 伝説をまとう男 重武装 完全武装 冬が迫る 砂漠に残った足跡 炎の支配 慈悲深きリーダー 海の司令官 島の覇者
https://w.atwiki.jp/hiyasiame/pages/14.html
かたよってたりぬけてたりしたらスマン ID TZQln9svO 最初のスレの1クソ厨房 あまりにクソすぎて釣りかと思わせる Fuck youの意味が分からない(小房?) ID G+uRAlWcO、V/Y2glI40、e+tid1SC0、eQBlf02NO ひやしあめ クソFlash 声イケメン 電凸王子 ID uX+M7WA0OID お祭りオバサン スリランカの知人を持ち、そいつに電凸させて 完全解明に導いた ID q6VAa8nF0 日差し雨メル欄ハゲ 単語解読 ID dqNz6Am7O、Dn2huIanO まずいあめ(今のところ誰にも呼ばれてない)どきゅん ID 6MnLvmmRO フランス母 Je il est!! En outre peut-etre il vient Une fois que,la maniere si ID rhydobpzO 俺女。VIP中にカラオケ ID X28CtP7lO デートしてきた 彼氏と ID au1ZC9bi0 スポンサーねりあめ
https://w.atwiki.jp/jollyrogers/pages/23.html
教育・講演関連文化女子大学 三井不動産株式会社 宝酒造 東京理容美容学校 千葉大学 教育・講演関連 文化女子大学 非常勤講師(造形学部生活造形学科編集デザインコース)を勤めた 「一身上の都合により」2005年9月30日付で自主退職 こちらのページもご覧ください 2004年3月11日(木) 2004年4月から文化女子大で非常勤講師を勤めることを発表 ジョリーロジャースのHP:日記(2004年3月11日(木))より引用 この4月から某女子大で非常勤講師を勤めることになっちゃったワタクシは、 自らを厳しく律して生きて行こうと、強く心に誓うのでありました 2004年3月31日(水) 新宿のホテル(名称不明)で催された講師懇談会に出席 ジョリーロジャースのHP:日記(2004年4月1日(木))より引用 昨日はまず午前中、新宿のホテルで文化女子大学の講師懇談会 再来週から始まるのでございますね、ワタクシの講義は 2004年4月6日(火) 午後、3年生向けオリエンテーション ジョリーロジャースのHP:日記(2004年4月9日(金))より引用 【火曜日】 午後イチから新宿の文化女子大学で3年生向けのオリエンテーション 黒板にチョークで名前書いたりして、なんだか金八先生みたい 2004年4月7日(水) 午前、4年生向けオリエンテーション ジョリーロジャースのHP:日記(2004年4月9日(金))より引用 【水曜日】 朝から文化女子大学で今度は4年生向けのオリエンテーション こちらは3年生と比べるとグッと落ち着いた雰囲気の学生君たち でも、若い人たちの生のエネルギーを吸収して、オジサン若返りそうな気分 2004年4月14日(水) 文化女子大で最初の講義に臨んだ ジョリーロジャースのHP:日記(2004年4月14日(水))より引用 さて、今日は遂に、とうとう、文化女子大学での初授業の日でありました 緊張するなあ とはいえ、今はまだ女性教授の講義がメインで、 ワタクシは最後の方にちょこちょこっと補足でお話しする程度 2004年4月14日(水) 文化女子大で2回目の講義 ジョリーロジャースのHP:日記(2004年4月22日(木))より引用 さて昨日は文化女子大学での2回目の講義 あ~、でもなあ、なかなか上手く行きません ワタクシ以外の二人の教授のやり方を見てるとホントに恐れ入ってしまいます 見習って早く満足の行く授業が出来るようにならなくちゃ 2004年5月12日(水) 午後から、3年生の講義を2コマ、4年生の卒業制作を1コマ ジョリーロジャースのHP:日記(2004年5月13日(木))より引用 思えば昨日はお昼から文化女子大の3年生の授業を2コマ、 その後続いて4年生の卒業制作で1コマ 都合4時間半喋りっぱなしでございます 2004年5月19日(水) 3年生はDTPの実践(スキャナの使用方法等) 4年生は卒業制作の表紙案、取材&インタビューの極意を伝授 ジョリーロジャースのHP:日記(2004年5月20日(木))より引用 おかげで二日酔い気味になりつつ、昨日は文化女子大学で講師の日 3年生は早くもDTP(デスク・トップ・パブリッシング)の実践で、 まずはスキャナーの使い方を教えます 続く4年生の授業では卒業制作の表紙案、取材&インタビューの極意、 なんてものを話したりして 2004年6月2日(水) ジョリーロジャースのHP:日記(2004年6月3日(木))より引用 昨日の文化女子大学の講義の合間中、臀部の付け根と踵が痛うございます 体重過多なのにいきなり走り込み過ぎた、ちゅうことでしょうね 2004年6月30日(水) ジョリーロジャースのHP:日記(2004年7月3日(土))より引用 さて、今週は大学&TVと雑誌の仕事4本を抱え、 イベントは沢山有ったのでございますがHPを更新する時間が取れませんでした 2005年3月11日(金) ジョリーロジャースのHP:評論(“ライブドア問題”について考える)より引用 ワタクシ、文化女子大学造形文化学部編集デザインコースの講師として、 受け持ちの3年生、4年生の学生たちに、 口を酸っぱくして教えている事柄がございます 三井不動産株式会社 ワーカーズフォーラムMOC 電凸済 開催されたか詳細不明 講演予定会場は開催時刻には使用されていない こちらのページもご覧ください 趣味・教養講座講師 2005年10月27日(木)18 30~20 30 『あなたにも出来る、雑誌編集者的モノの見方・考え方』 ~もっと自由に生きて良いんじゃないの?~ ■日時 : 10月27日(木) 18:30~20:30 ■講師 : 及川 政治先生(メディアクロス・エディター) ■定員 : 25名 ■場所 : WF-MOCラウンジ ■参加費 : 500円(ゲートシティ大崎入居企業にお勤めのWF-MOC会員の方) 1,000円(三井不動産が運営するビルにお勤めで、WF-MOCメルマガ登録の方 ■講座内容(講師からのメッセージ) 雑誌編集者てのは不思議な生き物で、ついつい世の中を斜めに見ちゃう。 でも、真直ぐ見ないおかげで見えてくるモノというのがあるのです。 これ、身に付けると結構、皆さんも楽しい人生送れたりして。 ・そもそも雑誌編集者とは、どういう生き物か? ・他のメディアに携わる者とどう違うのか? ・何でそんな職業を選んじゃったのか? ・どうしたら、そんな風に生きられるのか? ・でも結構面白いよ、人生は、という実例を挙げながら、 「編集者的に生きることのススメ」をお話します。 宝酒造 電凸済 宝酒造の今後の対応は不明 洛友会講師 詳細不明 2003年11月 沖縄・石垣島へ泡盛見学ツアー 2004年2月10日(火) 勉強会に参加 ジョリーロジャースのHP:日記(2004年2月11日(水)) で、最後は日本橋の宝酒造へ 「酒と文化を考える」勉強会(ホントよ)に参加 東京理容美容学校 講師 詳細不明 電凸済 存在が確認された東京綜合理容美容専門学校に概要を報告 千葉大学 西田ゼミナール講師 詳細不明 単発で講師を勤めた可能性が高いので放置
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/791.html
太政官 太政官(だいじょうかん、おおいまつりごとのつかさ)とは、日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関を指す。長官は太政大臣(だいじょうだいじん)。通常はこれに次ぐ左大臣と右大臣が長官としての役割を担った。事務局として少納言局と左右弁官局が付属する。唐名から尚書省(しょうしょしょう)、都省(としょう)とも呼ばれた。 太政官(だじょうかん)とは、日本の明治維新政府に設けられた官庁名。1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。太政官とは、議政官以下7官の総称。翌1869年(明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄することとなった。後に、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。1885年(明治18年)、内閣制度が発足したことに伴い廃止された。 律令制の太政官 概説 古代日本において中国から律令制を導入する際、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官を明確に分けた。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括する最高機関である(因事管隷)。平安時代になると、摂政や関白が天皇の代理として政治を執り行ったため、相対的に地位が低下したが、国政に関する最高機関として機能し続けた。武家社会の時代に入っても、鎌倉時代には政務機関として機能していたが、室町時代になると次第に形骸化が進み、単純に格式を表わす職名になった。明治維新で律令制が廃止されるまで存在した。 太政官の職 太政官も、律令制の他の官制と同じように、長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)の四階級(四等官)が存在する。太政官は、機構としては政策決定機関である議政官(ぎじょうかん)と、事務部門である少納言局・左弁官局・右弁官局および臨時監察官である巡察使に分かれた。その下に八省が置かれた。太政官は唐の制度における門下省(審議)と尚書省(行政)の役割を統合した性格を有しており、門下省的な役割を担った少納言局と尚書省的な役割を担った弁官局が並立したが、議政官が実際の審議機関となったことによって少納言局の権限が形骸化される一方で、行政事務を管轄する弁官局の力が強まって、外記に対しても影響を行使するようになったとされている。後に少納言局から外記局が分立して少納言局・左弁官局・右弁官局・外記局に属する官人を政官(じょうかん)と称した。なお、地方官も左右弁官局の共同管理下に置かれている。 長官(かみ) 太政大臣 - 平安時代以前は常設の職では無かった(則闕の官という)が、平安以降は常設される。 左大臣 - 事実上の行政最高責任者 右大臣 - 左大臣の補佐を行う 内大臣 - 大宝律令以前からの内臣(令外官)の後身。平安時代に令外官として常制化する。 次官(すけ) 大納言 中納言 - 大宝律令では廃止され、令外官として復活する。 参議 - 令外官・一時観察使に改編されるが復活 判官(じょう) 少納言- 少納言局を司る。 左大弁、左中弁、左少弁 - 左弁官局を司る。下に四省を持つ。 右大弁、右中弁、右少弁 - 右弁官局を司る。下に四省を持つ。 主典(さかん) 大外記、少外記 - 少納言局に属して書記を行う。 大史、少史 - 弁官局に属して事務を行う。 巡察使 - 臨時に諸国を監察する。 台閣 古代中国では、八省の上にあってこれを統括し、また皇帝を補佐して政策を審議する機関のことを「台閣」と呼んだ。日本でも律令制が導入されて太政官が八省の上に置かれると、政策決定機関である議政官のことを特に唐名で「台閣」(たいかく)と呼ぶようになった。この呼称は明治の太政官制にもひきつがれ、やがてこれを言い替えた「内閣」を中心とする内閣制度が、1885年に太政官制に取って代わった。 明治維新の太政官 概説 太政官(特に「だじょうかん」と読み分けられる)は、明治維新が開始された1868年(慶応4年/明治元年)、政体書によって設置された最高行政機関である。立法・行政・司法の機能を備えていた。職名は律令制の名称がそのまま使われていたが、その組織に関しては幾度か改革がされた。1885年(明治18年)に内閣制度が発足したことに伴い、廃止された。 明治維新政府の官制 1868年(慶応3年)から1885年(明治18年)に至る期間は、官制の改廃が著しく、常に一定しない。官制は大要、下記のように改編された。 三職 1868年1月3日(慶応3年旧12月9日)に王政復古の大号令が出されると、依然として強力な政治体制を維持していた江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。そこで、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるものとして、総裁(有栖川宮熾仁親王、議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の三職が任命された。慶応4(明治元)年1月には、この下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて三職七科とし、当面の政務に当たることになった。翌2月には、科を局として総裁局を設置し、三職八局とした(なお、海陸軍科は軍防局と改称された。)。総裁局には副総裁を置き、議定の岩倉具視と三条実美をこれに任命して、熾仁親王を補佐することとなった。 政体書 Template main? Template wikisource? 1868年6月11日(慶応4年旧閏4月21日)、副島種臣・福岡孝弟の起草による、基本法ともいえる政体書(慶応4年太政官達第331号)が、太政官の名で布告された。政体書は、新政府の政体を「五箇条の御誓文」に基づくものとし、権力分立・官吏公選・府藩県三治制などについて規定している。この政体書に基づいて6月17日(旧閏4月27日)新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して、同時に内部では権力分立を行って専制権力の発生を阻止しながら、諸大名や国民を強力に支配していく体制を組織しようとしたのである。 政体(慶応4年太政官達第331号) (略) 一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法司法行政ノ三権トス則偏重ノ患無カラシムルナリ 一 立法官ハ行政官ヲ兼ヌルヲ得ス行政官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ス但シ臨時都府巡察ト外国応接トノ如キ猶立法官得管之 (略) 三職のうち総裁が廃止されて(当時、有栖川宮熾仁親王は、江戸に滞在中)、副総裁2人が輔相と称して事実上の政府首班に就いた。立法権を司る議政官は、議定・参与からなる上局と諸藩の代表(貢士)からなる下局から構成された。行政権を司るのは、行政・神祇・会計・軍務・外国の各官(官庁)からなる五官であり、特に行政官は輔相を長として他の4官を監督する役割も担った。三権を担う官のうち司法権を扱う司法官は、実際には4官同様、行政官の監督を受けていたため、司法権の独立は形骸化した。さらに、輔相は議定の資格で議政官(上局)の構成メンバーでもあったため、権力分立は形ばかりとなっていた。 戊辰戦争終了後の1869年(明治2年)に入ると、版籍奉還が実施されて、諸藩は政府の地方機関として位置づけられた。そこで、会計官から地方行政を扱う民部官が独立した。続いて政体書に基づく「官吏公選」が行われて守旧派の公家や諸侯は事実上排除される形となった。また、監察機関として弾正台が設置された。 太政官制 こうした政治情勢の変動に対応して、1869年8月15日(明治2年7月8日)に、新しい太政官制が導入された。これは、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であった。まず神祇官が復活して太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られ、侍詔院・弾正台・集議院・大学校などの諸機関が置かれた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた事が特徴である。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。三職は明治天皇に対して「三職盟約」・「約束四条」と呼ばれる誓約を行って天皇への忠誠と公正な政務を誓った。また、これに伴い「官位相当表」が改正され、左右両大臣は従一位または正二位、大納言は従二位、参議・卿は正三位、大輔は従三位、少輔は正四位とされ、また八位と初位の間に正・従の九位の位階が追加された。また、任命手続きにおいては四位以上を「勅授」・六位以上を「奏授」・七位以下を「判授」と呼んだがすぐに改められて、位階の授与については従来通り、役職の任命については勅任・奏任・判任と改称されることになった。 だが、蓋を開けてみると右大臣に三条、大納言に岩倉と徳大寺実則がついたのを始めとして主要官職を皇族と公家が独占して、わずかに参議に前原一誠・副島種臣、民部卿に前福井藩主松平慶永が武士階層から選ばれただけであった。保守派の画策によって木戸孝允・大久保利通・板垣退助らは閑職であった侍詔院学士に追いやられてしまったのである。これに反発した岩倉は、三条と相談して大久保と広沢真臣(後に佐々木高行も加えて)を追加任命して巻き返しを図ったのである。 こうした中で問題となったのは、民部省と大蔵省の合併問題であった。徴税機構と財政機構の一本化を目指して明治2年8月11日に両省を合併、民部卿松平慶永が大蔵卿を大蔵大輔大隈重信が民部大輔を兼任した。今度は中央集権体制の確立を急ぐ木戸孝允の支持を得た大隈や大蔵少輔伊藤博文ら開明派若手官僚の画策であった。一方、大久保らはこうした動きに対して、新省が太政官を上回る権限を持つとして反発し、他の参議や地方官と結んで大隈・伊藤の排撃と再分離を求めた。その結果、1870年8月6日(明治3年7月10日)に大久保が主導して両省の再分離が決定された。だが、最終的に両派の間で妥協が成立して、1870年12月12日に(明治3年閏10月20日)殖産興業を専門に扱う工部省の分離と引き換えに1871年9月11日(明治4年7月27日)に民部・大蔵両省の再合併が決定された。これは廃藩置県などの推進の過程で大久保が中央集権の必要性を認めて木戸らの方針に同意する方向へと変わると同時に、殖産興業の分離で合併後の新省が持つ権限の分割に成功したこと、更には将来の政府を担う開明派若手官僚との全面衝突を避けたいとの思惑があったからであると言われている。更に1871年に入ると廃藩置県に向けた政府内の動きが密かに動き出し、薩摩・長州・土佐3藩の兵を御親兵として集めるとともに、郷里に帰っていた西郷隆盛と板垣退助を呼び戻した。 廃藩置県後の官制 1871年8月29日(明治4年7月14日)、廃藩置県が断行された。ほぼ前後して司法省と文部省が設置され次いで正院(中央政府)・左院(諮問機関)・右院(調整機関)が設置され、神祇官が神祇省に格下げされるなどの改革が断行された。更に同時に人事面でも改革が進められ、太政大臣に三条実美・参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任して、これに岩倉と万里小路博房が政府内に留まったものの他の公家・諸侯は悉く職を免ぜられ、また旧来通りの宮中の女官の排除も行われた。更に位階制を廃止して15階からなる官等制(文官は3等・武官は4等以上を勅任官、7等以上を奏任官、それ以下を判任官とする)を導入した。これによって、天皇が親臨・親裁形式で太政官以下を率い、三大臣がこれを輔弼して参議・卿を指揮する(従って参議以下には輔弼責任はなかった)という明治の太政官制の基本形式と薩長土肥出身者によるいわゆる藩閥の原点か確立したのである。 明治8年の官制 1875年(明治8年)1月、参議の大久保利通と伊藤博文は、征韓論などをめぐって辞職した木戸孝允と板垣退助に対し、参議に復職することを求めた(大阪会議)。同年2月に至り、立憲体制へ漸次的に移行することで一致し、二人の復帰が決まった。同年4月14日には、立憲政體ノ詔書(太政官布告第58号)を発して、行政を担当する太政官・正院、立法を担当する元老院・地方官会議、司法を担当する大審院を置く三権分立制の基礎を形作った。この体制は、1885年(明治18年)に内閣制度が発足するまで続いた。 太政官制における法令 この時代に出された太政官布告・太政官達などの法令は、後に制定された法令に矛盾しない限り、効力は存続するとされている。現在でも、大日本帝国憲法下で法律としての効力があったと解される場合は、日本国憲法の内容に反しない限り、効力は存続していると解されている。 関連項目 律令制 日本の官制 近代日本の官制 太政官符 太政官奏 太政官厨家 官政 太政官布告・太政官達 関連書籍 (律令制) 武光誠「律令太政官制の研究」吉川弘文館 1999年発行2007年増訂 ISBN 9784642024594 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月26日 (水) 08 27。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/154.html
明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われた。西郷はそれを抑え、まず自ら非武装で朝鮮に行き、礼を尽くして談判後それでも決裂した場合、朝鮮の罪を明らかにし非を問うべきだと主張。元々士族の窮状に心を痛めていた西郷は、自らが朝鮮で殺されることを以て征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる(これは西郷が板垣に宛てた書簡からうかがえる。これを根拠に西郷は交渉よりも武力行使を前提にしていたとされ、教科書などではこれが定説となっている。ただし板垣宛の書簡は板垣を説得するための方便に過ぎず、西郷の本意は交渉重視であったとの説もある)。 この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋らであり、反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、大隈重信、大木喬任、黒田清隆らである。この征韓論争は「征韓派対内治派」という単純な構図ではなく、裏には藩閥の主導権争いを巡る思惑が絡んでいたとされる。また、岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反した決定であったことも大久保らの態度を硬化させた原因であった(徴兵令や地租改正などの留守中の改革は、いずれも使節団出発前に方針を打ち出されていたものであったが、韓国派遣のみは全く相談が行われなかった)。 大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前の8月17日、一度は閣議で西郷を朝鮮へ全権大使として派遣することが決まったが、翌日この案を上奏された明治天皇は「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」という取り決めを基に岩倉具視が帰国するまで待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下している(岩倉の帰国は9月17日)。 大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず西郷が朝鮮に行った場合必ず殺される、そうなった場合結果的に朝鮮と開戦してしまうのではないかという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題(台湾出兵参照)、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。 10月14日-15日に開かれた閣議は紛糾したが、採決で同数になった結果、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。反対(延期)派の参議である大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、右大臣の岩倉も辞意を伝える。 後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった太政大臣の三条実美が10月17日に倒れ、人事不省に陥る。 太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、大久保、大隈、伊藤、黒田らは宮中工作を開始、宮内卿徳大寺実則の助力を得て事前に明治天皇に延期論を上奏、これは明治天皇の意思を拘束するためであった。そして10月23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、西郷派遣は無期延期の幻となった。閣議決定が工作により覆されたのである。 そして西郷は当日、板垣、後藤、江藤、副島は翌10月24日に辞表を提出。10月25日に受理され、賛成派の参議5人は下野した。また征韓論に賛成する軍人、下野した参議と懇意であった官僚も大量に辞職。ちなみに反対派参議の辞表は当然不受理となった。更に翌年1月にも板垣・後藤に近い官僚・軍人が西郷の近衛都督の後任引継が行われないままに帰国するという法令違反を犯しているのを咎めるどころか、逆に西郷に対してのみ政府復帰の働きかけを行っている事に憤慨して第2の大量辞任が起きた。 この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山県有朋と井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。この政変により大久保が政府の実権を握った。また、木戸孝允も征韓論を否定しながら、台湾出兵を決めた大久保の政治手法に不満を抱いて下野してしまう。これによりその後の明治政府の方針は大久保の主導によることが確定した。また佐賀の乱、西南戦争などの士族反乱や自由民権運動の発端ともなった。 後日譚 ただし、これで征韓論争が終わった訳ではない。なぜなら、朝鮮との国交問題そのものは未解決であること、伊地知正治のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは千島樺太交換条約の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。1874年9月に開始された交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめるというものであった。ところが、日本側が一旦帰国した森山からの報告を受けた後に、大阪会議や佐賀の乱への対応で朝鮮問題が後回しにされて「九月協定」への了承を先延ばしにしているうちに、朝鮮では大院君側が巻き返しが図られて再び攘夷論が巻き起こったのである。このため、翌1875年2月から始められた細部を詰めるための2次交渉は全く噛み合わない物になってしまった。しかも交渉は双方の首都から離れた倭館のある釜山で開かれ、相手側政府の状況は勿論、担当者が自国政府の状況も十分把握できない状況下で交渉が行われたために相互ともに相手側が「九月協定」の合意内容を破ったと非難を始めて、6月には決裂した。一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあった。このため、8月27日に森山特使に引上げを命じて当面様子見を行うことが決定したのである。その直後に江華島事件が発生、日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。 またこれにより、天皇の意思が政府の正式決定に勝るという前例が出来上がってしまった。これの危険な点は、例えば天皇に取り入った者が天皇の名を借りて実状にそぐわない法令をだしても、そのまま施行されてしまうという危険性があるというように、天皇を個人的に手に入れた者が政策の意思決定が可能な点にある。そして、西南戦争直後に形成された侍補を中心とする宮中保守派の台頭がその可能性を現実のものとした。その危険性に気づいた伊藤博文らは大日本帝国憲法制定時に天皇の神格化を図り、「神棚に祭る」ことで第三者が容易に関与できないようにし、合法的に天皇権限を押さえ込んだ。 参考文献 高橋秀直「明治維新期の朝鮮政策 大久保政権期を中心に」(山本四郎 編『日本近代国家の形成と展開』(吉川弘文館、1996年 ISBN 4642036644)) 関連項目 民撰議院設立建白書 日本史の出来事一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月24日 (土) 09 13。
https://w.atwiki.jp/ggempirewiki/pages/264.html
挑戦 伝説を作る者 巻き添えによるダメージ 天才的戦略家 森ねずみ 高貴 名誉あること ずるがしこいキツネ ファイヤーデビル 援軍
https://w.atwiki.jp/ggempirewiki/pages/255.html
経済 取引相手 特別な物 権力への道 商人 建築資材 予備の石材 たくさんの胃袋 戦争の原因 伝説の城主となれ 伝説を作る者